読書感想文

読んだ本の記録を残していきます

花びらとその他の不穏な物語を読んでの感想

花びらとその他の不穏な物語

著者 グアダルーペ・ネッテル 

訳 宇野和美

 

 

 

特異的であるが故に普遍的であるものというのは面白い。という表現を思い出す一冊。一方通行の愛が大きければ大きいほど、不穏な物語になるということを再確認することができた。仮に【良い愛】と【悪い愛】があるとすれば、この物語にある愛は【悪い愛】に分類することができて、悪いが故に美しくもあるのだけれど、あり得ないことだが同時に美しさというものが微塵もなくって、それがめちゃめちゃに気持ちが悪い。どいつもこいつも、一方的な自己愛を相手にぶつけている。

 

そしてこの気持ち悪さは始まりから終わりまで続く種類のものではなく、ある時ある瞬間から良い愛が悪い愛へと不安定に変化してしまうのだから面白い。その変化に気が付くこともあれば、気が付かないこともあるというわけだ。

 

短編集になっているが、どの話も不安定に変化していく。何も起こらないようで大きなできごとが起こり、大きな出来事のようで何も起こりはしない。【盆栽】では東京が舞台になっており、特に特異性を感じる話になっている。ぞわぞわと気味が悪くって嫌いなのにも関わらず、読み進めてしまうのだな、コレが。ラテンアメリカ文学に登場する日本人というのはいつも必ずと言っていいほどフェティシズムに溺れているのはなぜだろう。不安定さによる心の揺れが、読み終わった後に大きくなる一冊。

進化が同性愛者を用意した ジェンダー生物学を読んでの感想

進化が同性愛を用意した ジェンダーの生物学

著者 坂口菊恵

 

 

 

地球上の生物において、同性愛というのは珍しい行動ではないというのは現在においては多くの方が知る一般的な事実と言えるのではないだろうか。ここで言う同性愛とは、それが正しいのか否かも含めてホルモン、また染色体がX同士、あるいはY同士であるという染色体による定義上の女性、または男性同士のことを指している。そしてその生物学的性とは何かというところからスタートすることができる。つまり、性別とは何か?という疑問を投げかけられるわけだ。

 

本書ではさまざまな研究者の論文が提示され、それがどのように議論をもたらしたのかどうかを示してくれている。面白いと感じたのは、進化生物学から派生した適応主義の理論だが、正直なところ【性の多様性の本当の意味を明らかにする】というキャッチコピーにあるような、性の多様性の本当の意味、つまり進化生物学的なプロセスの話ではなかった。

 

同性愛というのは、マイノリティな行動ではないですよという提示に留まっているように思えた。どのあたりが【進化が】【用意した】ものとなるのだろう。誤解しないで欲しいのだけれど、私も綺麗な女性が好きだし同性愛自体を否定したいのではないし、同性愛が不自然であると言いたいわけでもない。同性愛の合理性、それが進化生物学で語られていると期待しすぎていたのかもしれない。同性愛とは何か?を何かという点を知りたい方は楽しめる1冊でしょう。

 

 

【アンパンマン伝説】を読んだ感想

アンパンマン伝説

著者 やなせたかし

 

 

 

私が通っていた幼稚園は廊下に本棚が設置してあって、そこではたくさんの絵本を読むことができた。アンパンマンは、そんな幼稚園時代の私の思い出の1つだ。保護者がお迎え時間に遅れると、決まって小さなブラウン管のテレビでアンパンマンのビデオを流してくれた。このまま親が迎えに来ることはないのかもしれない、という必要のない不安の中でアンパンマンを眺めていたことも覚えている。

 

やなせたかし先生が2013年に亡くなったことを再認識し、2014年生まれの娘はただの1度も同じ時代を生きてはいないのかと驚く。けれども私の幼少期同様、娘の幼少期にはアンパンマンがいた。

 

この本はアンパンマンの歴史をじっくりと知ることができる1冊になっている。アンパンマンがなぜ子供たちの心を掴んで離さなかったのか、やなせたかし先生曰く芸術的高級絵本とは違い子供だってエンターテイメントが好きなんだという価値観から誕生したストーリーになっているためだという。本来絵本作家は年齢に合わせ複雑に作家が別れているものであるけれど、単純に面白さを追求したらしい。評論家の言葉より2歳児の厳しい評価を信じたというわけだ。登場人物の性格をくっきりと鮮明にする。それぞれのキャラクターが、どのように誕生したのかを知ることができるのも面白い。

 

 

風と共に去りぬを参考にしていたり、パンをむしゃむしゃ食べながら考えたり、人気者にするはずがそうはならなかったキャラクターなど、アンパンマンの製作秘話がたっぷり詰まっている。

 

耳がきこえないママときこえるムスメのおはなし。を読んだ感想

 

耳がきこえないママときこえるムスメのおはなし

著者 うささ

 

 

 

 

私たちは誰だって自分の世界を通してしか、世界を見ることができない。耳が聞こえない世界とはどんなものだろう。と、想像してみることはできても、私の耳は聞こえている。音のある世界と、音のない世界。

 

障がいを抱えた子に対する親の思いが書き記された本やエッセイ集,SNSやブログなどを目にすることは多い。だが、その反対は数少ない。そんな興味本位から本書を手に取った。

 

ほのぼのとした子との日常生活が綴られていく中で起こる喜びや悲しみ、そして不安のそのほとんどが、耳の聞こえる私でさえ懐かしいと感じる小さな子供に対する愛情のそれであって、新米ママに対するエールを送りたいという温かな気持ちになる。聞こえる世界と聞こえない世界は、それほど大きく離れてはいない。しかしながらこの感覚は、音の情報量の値を知っている聞こえている側の意見に過ぎないことを思い出させてくれる。どんぐりの家という漫画に登場する耳の聞こえない少年のエピソードを思い出す。学校からの帰宅途中、雪が降ってきた。少年の母親は自宅で家事をしていたので、外の雪には気が付かない。少年はお母さんが雪に気が付いていなかったことが不安になり、やがて怒り、悲しみに変わる。【雪はしんしんと降るのに、なぜ耳の聞こえるお母さんは気が付かないんだ】という不安、怒り、悲しみだ。しとしと降る雨、そよそよ吹く風。ギラギラ降り注ぐ太陽。

 

音のある世界と、音のない世界。それぞれが存在していることを知ることの大切さを柔らかく感じることができた。

 

 

世界の奇食の歴史 人はなぜそれを食べずにはいられなかったのかを読んだ感想

世界の奇食の歴史 人はなぜそれを食べずにはいられなかったのか

作者 セレン・チャリントン・ホリンズ 訳 阿部将大

 

 

 

 

「あなたが普段食べているものを教えて欲しい。あなたがどんな人であるか、当ててみせよう」と言ったのはフランスの美食家で有名なジャン・アンテルム・サラヴァンだ。過激な発言ではあるが、食べているものはその人の文化的また社会的立ち位置を示す、一つの指標になっているとも考えられるのではないだろうか。

 

さて、本書は奇食の歴史が語られていくのだが、奇食とは何かを定義するのは難しい。食べて気味が悪いものというのは文化により大きく異なるためだ。そのため私は嫌悪感を示す食べ物の仮説として「有害であり危険」があるものを、人は不愉快に思うのではないかと考えた。しかし、あっさりとその仮説は覆される。私たち人間は、ほとんどの文化の中であえて食品を腐りかけにし、時には酷い悪臭を生み出してから食べてきたのである。

 

この本では缶詰、内臓、血、虫などが食べられるに至った経緯、また当時の食生活の中でそれらがどのような地位にあったかなど詳しく解説されている。他の文化に対し失礼な表現ではあるが、単にゲテモノ料理の紹介ではない。社会的、また文化的に根付いた食事がどのように変貌を遂げてきたのかという歴史である。

 

とは言え、目を背けたくなるような料理が多い中で缶詰が登場するのは非常に興味深かった。缶詰が誕生した当時、肉屋はまだ店先に動物を吊るしている店がほとんどだった。今では目を背けたくなる光景だが、これこそが新鮮な良い肉を扱っているという一種の証明だったわけである。そのため缶詰肉は「動物の死体の詰められた缶」という扱いだったのだ。当時安全性が認められていたにも関わらず、本当か確かめようのない不幸話も盛んで新聞もこの不安を煽っていたようだ。今の食用コオロギ問題と何やら重なる部分も多い。

 

日本の奇食も数回登場するが、2012年に杉並区で開かれた切断した男性器の食事会の話が登場するとは驚いた。また日本は鯨の睾丸を醤油で食べるとも書かれていた。鯨肉は食べたことがあるが、睾丸まで食べられたとは。知らなかった。

 

気食の歴史は当時の生活様式を感じることができる非常に面白いものだった。人はなぜそれを食べずにはいられなかったのか?という副題があるが、私も最後に疑問を投げかけたい。なぜ日本では脳みそを食べる文化が発展しなかったのだろうか。その他の部位は綺麗に食べつくすというのに。

 

 

 

人類学者と言語学者が森に入って考えたことを読んだ感想

人類学者と言語学者が森に入って考えたこと

奥野克己 伊藤雄馬

 

 

人類学者と言語学者の2人の対談形式の一冊。

 

こうした対談形式の本を読む際には、基本的に対談者のことをある程度知っていることが求められると思うけれど、失礼ながら私は対談者に対する事前知識はゼロであった。とにかく本の題名にある通り、「人類学者と言語学者が森に入って考えたこと」というのは何なのか気になったのだ。

 

私がこの本に求めていたのは「森に入って何を考えたんだろう」というただそれだけであった。結局のところ本を読んで感じた「森に入って何を考えたか」という疑問に対する答えは【こんなんでも生きていける】という主張になるのではないかと感じた。

 

資本主義社会で生きてきた中で、あえて狩猟採集民族としての暮らしをする。そこで見えてくる別の可能性。それが「こんなんでも生きていける」という言葉に集約してしまっていると感じて、これがパースペクティヴ的思考なのかもしれないけれども、海外行ってめっちゃ視野広がりましてん!という、それ以上の何かを感じることができない。

 

このすり鉢状の世界の内側に、そもそもいない。競争社会から逸脱してしまって、ぐうたらと「こんなん」で生きている私だから、この感覚以上のものを覚えることができないのではないかという一抹の不安も残る。誤解のないように言っておくが、私はこの「海外行ってめっちゃ視野広がりましてん!」という考え方はとても好きだし、重要なことだとも思っている。ただ、人類学者と言語学者が森に入って何か私には想像もできない、それ以上の何か、めっちゃ面白いことを見つけたのではないかと期待に胸を膨らませ過ぎていたという話になる。

 

他文化の中で他言語に触れる際、そこには日本の中で暮らす日本語を話す自分とは違う新しい自分という存在が確かにあって、そこにはそこでしか感じられない感覚が確かに存在する。何も国を飛び越えなくても、国内旅行の先でもいいし、対人関係の中でも小さなそれは起こりえると感じている。

 

枝にそっくりな虫-ナナフシーが、自分は枝にそっくりであることを自覚しているのか、またメダマヤママユユガが、自分のその羽の柄が目玉にそっくりであることを自覚しているのか、そんなことを知りたい。彼らはどんな視点で自己を見つめているのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

眠れなくなるほど面白いカラスの話を読んだ感想

眠れなくなるほど面白いカラスの話

作者 松原始

 

カラスにまつわる話を実にシンプルに解説してくれているのが本書の特徴。カラスの話に対して【図解】とはどういうものになるか気になっていたのだけれど、右ページで文章説明された内容を左ページでパワーポイントでまとめたんだね!という構成になっている。知識の定着率、上がるね!という感じで同じ内容を繰り返し読むことにはなるんだけれど、この可愛いカラスのイラストこそが、この本の楽しみだと言えるかもしれない。

 

さて、私はカラスにそこまで嫌悪感を抱いたことがない。というのも、私自身が田舎の山育ち故、ゴミをあさるカラスやヒナを守るために攻撃的になったカラスに遭遇することなく成長したからではないかと思う。

 

今現在も田舎暮らしは相も変わらずなわけだけれど、子供時代に過ごした田舎よりは田舎らしさの減った田舎に住んでいる。娘と犬の散歩をしているとカラスがカーカーカーカーとても騒がしい。「おい!こっちに来るんじゃねーぞ」と怒っているのかもしれないねなどと軽口を叩いたばっかりに、娘はその道を通る時にカラスに攻撃されないか怖いと言い出したので、ふむむカラスはなぜ鳴いているんだろう?と、思って手に取ったのが本書なのだ。

 

カラスの言葉(と表現したい)が「カーカー」「カァーッ」「ガー」などと色々と記されている。なるほど、だいたいこんな気持ちだったのかと笑って楽しむことができる。こうなると娘とカラス会話ごっこが楽しめる。のだが、残念。娘はもうそんなに幼くはないようで、それほど興味を示さない。自分自身に対するカラスの攻撃性がないと分かれば、それだけで満足らしい。カラスは耳と記憶力がいいので、上手に鳴きまねをしたら「なんやねんこいつ?!」と、そんな気持ちにもなってくれるようなので、お友達になるきっかけにもなるかもしれない。

 

様々なカラスにまつわる話の中で面白いなと感じたのは、カラスの優位性の話だ。カラスの群れには上下関係が存在する。大きい個体、強い個体が上で餌を先に食べることができる。が、カラスの上ができるのはそれだけで、下に対して何かを命じることはないというのである。動物の世界は縦社会と横社会がはっきり分かれていることが多いので、この「群れに対するフランクな姿勢」がカラス特有のものなのか、他の鳥類や動物でも見られるものなのか非常に気になるではないか。むむむ、カラスについてもっと知りたくなってしまった。

 

 

カラスについてざっくりと面白く解説されている本書は、まあカラスのことについて知ってあげてもいいよ?くらいのスタンスの人も楽しむことができるという点で非常に面白い一冊だ。カラスってかわいい。