読書感想文

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人類学者と言語学者が森に入って考えたことを読んだ感想

人類学者と言語学者が森に入って考えたこと

奥野克己 伊藤雄馬

 

 

人類学者と言語学者の2人の対談形式の一冊。

 

こうした対談形式の本を読む際には、基本的に対談者のことをある程度知っていることが求められると思うけれど、失礼ながら私は対談者に対する事前知識はゼロであった。とにかく本の題名にある通り、「人類学者と言語学者が森に入って考えたこと」というのは何なのか気になったのだ。

 

私がこの本に求めていたのは「森に入って何を考えたんだろう」というただそれだけであった。結局のところ本を読んで感じた「森に入って何を考えたか」という疑問に対する答えは【こんなんでも生きていける】という主張になるのではないかと感じた。

 

資本主義社会で生きてきた中で、あえて狩猟採集民族としての暮らしをする。そこで見えてくる別の可能性。それが「こんなんでも生きていける」という言葉に集約してしまっていると感じて、これがパースペクティヴ的思考なのかもしれないけれども、海外行ってめっちゃ視野広がりましてん!という、それ以上の何かを感じることができない。

 

このすり鉢状の世界の内側に、そもそもいない。競争社会から逸脱してしまって、ぐうたらと「こんなん」で生きている私だから、この感覚以上のものを覚えることができないのではないかという一抹の不安も残る。誤解のないように言っておくが、私はこの「海外行ってめっちゃ視野広がりましてん!」という考え方はとても好きだし、重要なことだとも思っている。ただ、人類学者と言語学者が森に入って何か私には想像もできない、それ以上の何か、めっちゃ面白いことを見つけたのではないかと期待に胸を膨らませ過ぎていたという話になる。

 

他文化の中で他言語に触れる際、そこには日本の中で暮らす日本語を話す自分とは違う新しい自分という存在が確かにあって、そこにはそこでしか感じられない感覚が確かに存在する。何も国を飛び越えなくても、国内旅行の先でもいいし、対人関係の中でも小さなそれは起こりえると感じている。

 

枝にそっくりな虫-ナナフシーが、自分は枝にそっくりであることを自覚しているのか、またメダマヤママユユガが、自分のその羽の柄が目玉にそっくりであることを自覚しているのか、そんなことを知りたい。彼らはどんな視点で自己を見つめているのだろう。